タナカホームヒストリー

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お金がなくて進学をあきらめる

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お金がなくて進学をあきらめる

家の仕事が忙しくたって、子どもですからやはり遊びだってします。特に楽しかったのはお祭りの日でした。七月上旬に木下の気比神社で行われていた、かつての名馬の産地ならではの馬祭りは、遠く岩手の方からも人がやってくる大きなお祭りでした。馬の成育を祝うこのお祭りでは、境内に馬を描いた絵馬がずらりと並びます。金次郎さんもこの日ばかりはおこづかいを十五銭もらいました。もったいなくて、ありがたくて、落としやしないかと手のひらをぎゅっと握りしめたまま、なかなか使う気になれません。天を駆けるような白馬の姿、力強い後脚の黒毛の馬、たくさんの名馬が描かれた絵を眺めているだけでも、十分楽しいものでした。

勉強することは好きだったので、尋常小学校を経て、高等小学校に入っても、成績はいつも上の方でした。学校では今のような勉強のほかにも、土地柄から野菜の育て方など農業も教わりました。やはり今のような勉強のための勉強をするところではなく、生活に役立つための知識を身につけるところだったのでしょう。みな生活に一生懸命でした。

経済は不振、農業も天候に恵まれず不作、そんな中、昭和八年の三月三日、三陸地震が起き、沿岸部は津波に見舞われました。幸い金次郎さんの家で亡くなったものはおりませんでしたが、近隣の集落では多くの方が家を流され、亡くなった方もいました。こうしてなかなか生活の苦しさからは逃れることができません。ある時、大人たちが

「銀行が潰れた」

と血相を変えて騒いでいました。金次郎さんたち子どもは

「地震か、火事か?」

と、何事かあったんだろうと思い、仲間たちと連れ立って、銀行を見るために八戸まで行くことにしました。ところが着いてみたところで、銀行にはなんの変わりもありません。以前と変わらずきちんと建っておりました。

「おかしいなあ、潰れたって聞いていたのになあ」

「違う銀行かもしれないよ」

と街を回った思い出もありました。

景気はこのように良くない時代でした。学校で優秀な成績を収めていた金次郎さんは、行商や家のお手伝いから次第に商売に興味を持ち、もっと幅広く学んでみたいと思い始 めます。そこで八戸商業に行きたいと考え学校の先生に相談したところ、先生もその意 見に賛成してくれました。しかし、学校に通うには授業料が必要です。授業料は毎月三円でした。いまの貨幣価値で言えば一万円位だったでしょうか。この時代、公務員の初任給が七十五円位と言われていました。お父さん、お母さんももっと勉強させたいと思っていました。しかし、この不景気と凶作のご時世、毎月の三円が捻出できないのです。

金次郎さんもそのことはよく分かっていました。学校から担任の平出先生がやってきて、お父さん、お母さんに、

「なんとか八戸の商業学校に行かせてやって欲しい」

と頼みに来てくれましたが、それでも学校に行くことは叶いませんでした。

この時十四才。これで金次郎さんの短い学生生活は終わりました。ここから金次郎さんは一人の社会人として、働き始めます。

商業学校にはいけなかった金次郎さんですが、しかしその才能を見抜いていた人たちがいました。一人は金次郎さんのお父さん、巳之松さん。そしてもう一人は巳之松さんの五番目の弟、要之助さんでした。要之助さんは、鉄道の八戸駅(今の本八戸駅)前で銭湯を手がけている、いわゆる商売の才覚がある人でした。田中の家の血筋は、もともとは関西にあったと言われています。江戸時代の終り頃か明治の始めに父円之助・母トクと息子元吉、岩松の二人が百石にやって来ました。この岩松さんの息子たちは商売をしているものが多く、次男由松さんは、精米所、要之助さんは、風呂屋、六男留之助さんは、魚屋をしておりました。それぞれ親戚同士で兄弟が話題にのぼる時には、「精米所」、「さかなや」と職種で呼びあっておりました。要之助さんは「冨士乃湯」という銭湯を八戸駅(停車場)の前で営んでおりましたので、「停車場」でした。(やがて子どもが生まれて大きくなると、「風呂屋のおじいさん」となり、その息子の實さんが、風呂屋のお父さん、だから「ふろパパ」となりました)

この要之助さんには新しい事業の計画があったのです。当時の八戸駅前にはかつて八 戸城のお堀がありました。このお堀は昭和の初めに埋め立てられ、その上に道路ができ、道の両脇が商店街として開発されました。開発事業からさかのぼる数年前に売り土地が 出たので、要之助さんは将来性を見越してその土地を買い求めます。

実は要之助さんには銭湯を経営しながら、新しい商売に古着屋をしたいと言う考えが ありました。そのためには八戸の一等地に店を構える必要があるという考えに至ります。以来、お風呂屋さんの仕事の合間に

「この十三日町、三日町のどこでもいいからおらに授けてくれ」

と念じて一日も欠かさずその街なかを歩いていました。そうして手に入ったのがこの駅前通りの近い将来の一等地です。

「強く念じて行動すれば叶う」というのは、要之助さんが後々まで子どもたちにも語っていた強い信条でした。

この古着屋と言う新規事業を始めるにあたり、要之助さんが目をつけたのが、金次郎さんでした。そう何度も会っていた訳ではありませんが、金次郎さんの利発さを見抜いていました。

「金次、あいつはいずれものになるかもしれん」

要之助さんの家では、男の子が生まれてもみな小さなうちに亡くなってしまい跡取り がいませんでした。要之助さんは巳之松さんのところへ相談に訪ね、新しい事業のこと、その事業に金次郎さんが必要なことを話しました。巳之松さんも本音を言えば、苦しい 家計を助けるために、百石で家の仕事を手伝ってほしかったのですが、金次郎さんを商 業学校に通わせてやれなかったことをとても気にしていました。

「金次がこの百石におったらわしらはどれだけ楽かわからんが、金次のためにも町に出してやりたい。八戸の要之助のところにおる方が学べることもたくさんあるべ」

こうして金次郎さんは八戸へ行くことになりました。


次回更新をお楽しみに!

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