タナカホームヒストリー

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2.八戸の見習い商人 冨士乃湯と冨士乃屋

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冨士乃湯と冨士乃屋

一川目の村では高等小学校を卒業しても、中学校に進む者はほとんどおらず、みな家の手伝い、または仕事に就くのが普通でした。金次郎さんは、卒業式から数日のあと、八戸駅近くの「停車場」の家を訪ねました。それは昭和十年三月のある寒い日、めずらしく雪が降り積もった日でした。両親、兄弟にあいさつをし、家を出て、もう日も暮れかけたころ、八幡町(今の内丸、本八戸駅通り)の家に着きました。要之助さんの家ではご飯の支度をして待っていました。食卓には器やお椀がきちんと並んでいたことを覚え ています。金次郎さんとあまり歳が変わらない可愛らしい娘さんが、お釜の横にちょこん と膝を折ってご飯をよそってくれました。この人は要之助さんの長女のキエさんでした。イカの切りこみ(塩辛)にガクラン漬け、そしておゆづけ(粥のようなもの)。八戸の家で食べたはじめての晩ご飯でした。

駅前通り沿いに立てられた要之助さんの家、つまり冨士乃湯は、当時としてはとてもモダンな建物でした。要之助さんの仲間に八戸でも腕利きの渡辺さんという棟梁さん(大工)がおり、その人が建てたものです。建物の構造もめずらしかったのですが、ビンを細かく砕いたガラスをモザイク仕立てで壁を作り、往来の人たちの注目を集めていました。要之助さんには先見の明があったのでしょう。かつて船頭として青森、函館で漁に出ていたこともあり、交友範囲も八戸にとどまらず、広い付き合いがありました。金次郎さんは、要之助さんのことを商売の神様のような人だなと思いました。

金次郎さんの一日は朝早くから始まりました。朝四時に起きると、製材所へ行き、木っ端や、のこくずをリヤカーで引き取りに行き、冨士乃湯に運びます。要するに、冨士乃湯の燃料にする薪集めです。

お風呂屋さんの仕事を終えると、ようやく古着屋の仕事が始まります。このお店は「冨士乃屋」という名前でした。この冨士乃湯と冨士乃屋の「冨士」という字には、富士山の富の字と違い、冠に点がありません。これは

「今はまだまだ努力の時、いつか冨士の頭に点がつけられるようにがんばって働こう」

という思いで要之助さんが命名したそうです。


次回更新をお楽しみに!

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